悟りとは大本への回帰

坐禅を始めたばかりの頃、わたしは「悟り」とは何かを、まだ明確には理解していませんでした。
当時思い描いていたのは、「悟り人」とは、人間を超越した、神のような存在…いわゆる普通の人間とはかけ離れた、特別で超人的な何か、という漠然としたイメージでした。

けれども、自らの内なる体験を重ねる中で、次第にそのイメージは静かに崩れていきました。

 

今でははっきりと感じています。

悟りとは、心や頭の中に知らず知らず積み上げてきた信念体系ー観念や概念、理想、エゴ、想像……そうしたものを少しずつ手放していくこと。
そして、心に残されていた過去の痛みや未解決の問題から自由になることだと。

 

わたしたちの心には、表面意識や深層意識があります。もっともっと深く降りていくと、根底に横たわっているものがあり、これを仏教では「仏性」と述べています。

仏、神、神我、真我、宇宙の本質、創造主の分霊、ソース(源)、ふるさと、一なるもの、一なる静寂、大いなるすべて、などとも言います。それはすべての人、すべてのものの根底に存在しています。

また、仏性というものは宇宙に遍満してます。宇宙のすべては父なる神が造りたもうたものです。神が造ったものはすべて神なのです。

 

ですから、悟りとは、新たに何かを手に入れることではありません。
それはまるで、重たい服を一枚ずつ脱ぎ捨てていくようなもの。
少しずつ身軽になりながら、本来の自分へと還っていく……そんな感覚に近いのです。

 

特別な状態を目指すのではなく、
ただ、源(みなもと)へと還り、最も自然な「ありのまま」へと戻っていくこと。
それこそが、「悟り」なのではないでしょうか。