Awake as One ひとつに目覚める 

「AWAKEASONE ひとつに目覚める」は、原田健児と原田かおりが運営しているブログです。

心を癒すと人生は変わり始める

私たちの心の中に、怒りや悲しみ、寂しさなどの感情が溜まったままだと、人生のさまざまな場面で、似たような出来事を何度も繰り返してしまうことがあります。

 

私たちは生まれてから、たくさんの価値観の中で育ってきました。

「こうしなさい」
「ちゃんとしなさい」
「こうあるべき」

親や周囲の大人たちは、悪気がなくても、自分たちの価値観や考え方を子どもに伝えていきます。

幼い頃の私たちは、とても純粋で吸収力が高いため、その言葉を深く考えることなく受け入れてしまいます。特に、愛してくれる親の言葉ほど、素直に信じてしまうものです。

 

けれども、その中で少しずつ、本来の自分らしさを見失ってしまうことがあります。

本当はこう感じていた。
本当はこう生きたかった。

そんな心の声を押し込めながら、「周りに合わせた自分」を作っていくのです。

 

すると魂は、本来の自分から離れてしまった痛みを感じ始めます。

それは、理由のわからない苦しさだったり、虚しさだったり、生きづらさとして現れることがあります。

でも、その痛みは悪いものではありません。

「本当の自分に戻ってほしい」
そんな魂からのサインなのかもしれません。

 

多くの人は、周囲に合わせて作られた自分を「本当の自分」だと思い込んでいます。

けれど、本来の自分はもっと自由で、もっと自然な存在です。

私たちの魂は、生まれる前から、この人生で何を学び、どう生きたいのかを知っているとも言われています。

だからこそ、過去の悲しみや怒りをそのままにせず、やさしく気づいてあげることが大切です。

 

「今この瞬間」に意識を向け、静かに自分の心を見つめていくと、忘れていた感情がふっと浮かび上がってくることがあります。

そして、その感情に気づき、受け入れてあげるだけでも、少しずつ心は癒されていきます。

 

本当の自分へ戻る道は、何かを付け足すことではなく、不要になったものを少しずつ手放していくことなのかもしれません。

そして、心が癒されていくにつれて、見える景色や人との関わり方、人生そのものも静かに変わり始めます。

心を癒すことは、人生を癒すことなのです。

 

 

目覚めの道を歩むあなたへ

いつの時代も、霊能者や占い師など、不思議な力を持つ人々は多く存在し、人々の関心を集めてきました。
けれども、「本当の自分とは何か」「なぜ生きるのか」といった、深い真理に心を向ける人は、実はとても少なかったようです。

 

お釈迦様の時代も、イエス様の時代も、真理に耳を傾け、それを日々の生き方として実践する人は、ごくわずかだったと言われています。
私自身、周囲を見渡してみても、そのようなことに本気で関心を持つ人は、ほんの少数だと感じます。

 

多くの人は、まだ“エゴ”を中心に生きています。
本当の自分として生きるのではなく、「人生をなんとか良くしたい」「今の自分を守りたい」「自分のストーリーを失いたくない」と、必死に握りしめながら生きているのです。

それほどまでに、人は“自分だと思い込んできたもの”を手放すことに恐れを感じるのでしょう。

 

ですが、一度その幻想から抜け出してみると、そこには驚くほど静かで、やさしく、心地よい世界があります。
「こんなにも楽に生きてよかったのか」
「こんなにも自由でよかったのか」
そう感じる瞬間が、きっと訪れるのだと思います。

 

私たちのマインド(思考や感情)の中には、過去の傷や苦しみ、そしてそれを埋めようとする未来への期待や理想が詰まっています。
そのため、心はいつも過去と未来の間で揺れ動き、どこか居心地の悪さを抱えながら生きているのかもしれません。

 

だからこそ、このブログを読んでくださっている皆さんは、すでにそのことに気づき始めている、と感じています。
それは、この時代において本当に貴重なことです。

本当の意味で“目覚め”に関心を持つ魂は、決して多くありません。
だからこそ、皆さんの存在そのものが、周囲にやさしい光を与えているのだと思います。

 

今は、大きな変化の時代です。
不安や苦しさの中で、懸命に生きている人もたくさんいます。
もちろん、私たちも例外ではありません。

それでも、どうか自分を卑下しないでください。
周囲の声や、社会の価値観に飲み込まれないでください。

 

あなたは、すばらしい魂を持っています。
ただその存在だけで、誰かを癒し、励まし、助けているのですから。

 

生きながらにして、涅槃を生きる

仏教でいう涅槃とは、悟りの境地であり、いわゆる天国とも称される世界です。
悟りを得た者が辿り着く場所とも言われています。

多くの人は、それを死後に行く世界のように思いがちですが、実は、生きている「今この瞬間」にも、その境地に触れることはできます。

 

たとえば、坐禅や瞑想を深く行ったとき、過去や未来という幻想から離れ、「今この瞬間」に完全に在るとき。
そのとき私たちは、涅槃の静けさや安らぎを体験することがあるのです。

聖者と呼ばれる人々は、まさにそのように、幻想の世界から解放され、涅槃を生きているのでしょう。

 

だからといって、肉体を酷使する厳しい修行をしなければならないとか、長時間坐禅や瞑想を続けなければならない、というわけではありません。

大切なのは、「なぜ自分は目覚めないのか」を知ることです。
そして、自分の中にあるエゴや信念、思い込みに気づいていくことです。

 

そうして少しずつ幻想から離れていくことで、私たちは本来の居場所である涅槃を体験し、その世界を生きることができるようになるのでしょう。

それは、生きながらにして天国を味わうような感覚なのかもしれません。

 

もちろん、「今この瞬間」や涅槃の世界を生きたからといって、人生からすべての障害や困難がなくなるわけではありません。

ですが、以前のように心が迷い続けなくなるぶん、物事がより自然に流れ、必要以上に苦しまずに歩めることが増えていきます。

これまでと、体験する現実そのものが変わったように感じる人もいるでしょう。

私たちの世界は、心の状態によって見え方が変わる世界でもあるのです。

 

だからこそ、過去や未来という幻想から目覚め、「今」を生きることは、とても大切なのだと思います。

それは、人生が突然劇的に変わるというよりも、気がつけば以前のような波風が少なくなり、穏やかな日々になっている――そんな変化に近いのかもしれません。

 

無理にポジティブになろうとしなくてもいいのです。

いつの間にか過去のネガティブな思いが薄れ、自然と心が軽くなり、前向きになっている。

本当の変化とは、そのように静かに訪れるものなのではないでしょうか。

 

そして、私たちの魂は、何千年もの輪廻転生を重ねながら、さまざまな経験をしてきた存在です。

だからこそ、目覚めや変化も、一瞬ですべてが変わるというより、長い間まとっていた着物を、一枚一枚静かに脱いでいくようなものなのかもしれません。

本来の自分へ還るとは、そのように少しずつ、やさしく、本当の姿へ戻っていくことなのでしょう。

 

 

 

永遠の愛

この世界は、本来、ひとつの大きなエネルギーからできています。

ですが、そのエネルギーは、人間、動物、植物、鉱物、物質、時間や空間など、さまざまな形となってあらわれています。

そのため、私たちは一見すると、それぞれが別々に存在しているように感じています。
けれども、本当はすべては深いところでつながっていて、「すべてはひとつ」なのです。

 

人間以外の動物や植物、自然の存在たちは、そのつながりの中で生きています。
自分だけが切り離されているという感覚を持たないため、分離から生まれる苦しみをあまり感じません。

ですが、私たち人間は、子どもの頃から教育や常識の中で、「私は個人である」「肉体が自分である」という意識を強めていきます。

 

すると、本来ひとつだった世界を忘れ、分離の感覚の中で生きるようになります。

「自分」と「他人」
「自分」と「世界」

その境界を強く感じるようになると、人は心の奥に、どこか満たされない感覚を抱えるようになります。

そして、その心の穴を埋めようとして、お金、愛、成功、健康、自己成長など、さまざまなものを求め続けます。

 

ですが、どれだけ何かを手に入れても、その穴が完全に埋まることはありません。

なぜなら、私たちが本当に求めているものは、外側にあるものではなく、本来ひとつであった安心感や愛とのつながりだからです。

私たちは、目に見える世界の中で、自分の人生の物語を生きています。
ですが実は、その奥では、いつも永遠の無償の愛に包まれています。

 

ただ、そのことを忘れているだけなのかもしれません。

だからこそ、「今この瞬間」に在ることが大切なのです。

永遠の愛は、過去にも未来にもなく、常に「今ここ」に在るのです。

 

 

本当の目的(ワンネスに生きる)

この世に生を受け、二元性の世界を生きている私たちの本当の目的は、「一体性(ワンネス)」を思い出すことなのかもしれません。

本来の私たちは、愛や光、やさしさ、強さ、思いやり、正直さを持つ、純粋な魂の存在です。
神と同じ性質を宿した、大いなる命の一部なのだと思います。

 

ですが、この世界はとてもリアルに感じられるため、私たちはいつの間にか、「自分は他者と分離された存在だ」と思い込み、その幻想の中で迷い続けてしまいます。

そして、外側の世界ばかりを追いかけていると、どこか心が満たされず、本当の安らぎを感じられなくなってしまうのです。

 

だからこそ、分離した「個」としてだけ生きるのではなく、大いなる命とつながった存在として生きることが大切なのだと思います。

そのためには、過去への後悔や未来への不安から少し離れ、「今この瞬間」に意識を戻していくことです。

 

今に在るとき、私たちは静けさの中で、本来の自分と出会い始めます。

そして少しずつ、愛や光を持って生きられるようになっていくのです。

すると、他人と比べて苦しくなったり、誰かを責めたり、傷つけたりする心も、少しずつ静まっていきます。

ありのままを受け入れ、自分も人も大切にしながら、思いやりを持って生きられるようになります。

 

エゴの欲望や感情に振り回されることも、少しずつ減っていくでしょう。

だからといって、完璧な人間になろうとする必要はありません。

不完全さも含めて、自分を受け入れながら、ただ本来の自分へ還っていけばいいのだと思います。

 

そして、本来の自分で生きられるようになると、心はもっと自由で、穏やかになっていきます。

無理に誰かに合わせたり、自分を偽ったりすることなく、自分の心に正直に生きられるようになるのです。

自分自身を大切にし、自分の本当の気持ちを尊重できるようになると、不思議と人にもやさしくなれます。

自分を満たそうと必死になるのではなく、自然と思いやりやあたたかさが内側からあふれてくるのです。

 

そして、ありのままの自分で生きながら、人とも調和して生きられるようになっていくのだと思います。

そして、人との関係にも自然な調和が生まれ、本当に必要なご縁ともつながっていくでしょう。

 

ブログを始めて、一年が過ぎました。

ここまで続けてこられたのは、多くの方々が私の記事を読んでくださり、関心を寄せ、あたたかく見守ってくださったからです。

本当にありがとうございます。

これからも、自分自身の体験や気づき、心の癒しや解放、本来の自分へ還る道について、少しずつお伝えしていけたらと思っています。

これからも、よろしくお願いします。

 

坐禅や瞑想は、何かを手に入れるための方法ではない

「神の造りたもうたものは、すべて神である」「万物は仏なり」——
私はこの大前提のもとで、ただ今この瞬間に在り続けることを大切にしています。

そばにあるものと共に在る。
それだけで、心は自然と静まっていきます。

 

ある知人は盆栽をそばに置き、盆栽と共に坐ることで深い落ち着きを得ていました。
けれど、それは盆栽でなくてもいいのです。
ろうそくの火を見つめることでもいい。
湯呑みに注がれたお茶の湯気でもいいのです。

 

親鸞聖人は、奥さまと向かい合い、その中にある仏性と共に坐っていたとも言われます。
拝み合うようにして、ただ「共に在る」ことを大切にしていたのです。

 

坐禅や瞑想は、本来「悟りを得るための手段」ではありません。
何かを達成するための修行でもありません。

ただ、すでにそこにある本質——
自分も、相手も、すべてが仏であるという事実に、静かに気づいていくためのものです。

 

本当は、私たちはすでに悟っています。
ただ、それを忘れてしまっているだけなのかもしれません。

だから坐るときに、「悟ろう」とする必要はありません。
何かをつかもうとする必要もありません。
評価も、成果も、時間の長さも関係ありません。

ただ、「今に在る」こと。
それだけで十分なのです。

 

以前の私は、「悟りを得る」「どこかに到達する」と思っていました。
しかし悟りは、未来に獲得するものではありませんでした。

すでにここにあったものに気づくこと。
それがすべてでした。

それに気づかないまま何十年も坐禅を続けてしまうこともあります。
私自身もその一人でした。

私たちは子どもの頃から、何かを達成するために努力することを学んできました。
そのため、瞑想や坐禅さえも「結果を得るための手段」にしてしまいがちです。

 

けれど本来、それは違います。

坐禅や瞑想は、何かを手に入れるための方法ではなく、
私たちの本質が、すでに大いなるすべて——宇宙そのもの、神、ふるさとと一つであることを、思い出すための時間なのです。

ただ在ること。
ただ共にあること。

それだけで、すべては満たされています。

 

忘れるという最高の行い

長い人生を生きていると、私たちは本当にたくさんの出来事を経験します。
うれしいこともあれば、苦しいことや、悲しいこともあります。

特に、自己成長を求めたり、霊性を高めようとする人生では、さまざまな出来事に出会うものなのかもしれません。

 

私自身の人生を振り返ってみても、元婚約者との死別、自身の病気、信じていた師に騙された経験など、言葉では語り尽くせないことがありました。

その一方で、人とのご縁に恵まれ、苦しいときに不思議なほど助けられたり、ぎりぎりのところで支えられてきた経験も何度もあります。

 

嫌なこと、悔しいこと、つらいこともたくさんありました。
では、どうやってそれを乗り越えてきたのかというと、「乗り越えた」というよりも、私は「忘れる」ことを大切にしてきたように思います。

もちろん、人生で起こる出来事には、長い輪廻の中で積み重ねてきたものが関係していることもあるのでしょう。

また、苦しい経験があったからこそ、魂が目覚めたり、大切なことに気づけたこともあります。

 

だからこそ、何もかもを完璧に理解しよう、分析しよう、解決しようともがき続けると、かえって心が苦しくなったり、事態が悪化してしまうこともあります。

私も、信じていた師に騙されていたと気づいたときには、

「人に道を説く立場の人が、なぜ人を欺くのだろう」

と、怒りに震えたことがありました。

 

けれど、怒り続けたり、仕返しを考えたりしても、結局は自分自身の心が濁っていくだけでした。
それでは、相手と同じ場所に自分を落としてしまうのだと気づいたのです。

だから私は、できるだけきれいに手放し、忘れることを選ぶようになりました。

 

私たちは本来、愛や光そのものの存在です。
本当の意味で大切なのは、外側の出来事に振り回され続けることではなく、どんな時も、自分の内側を静けさへ戻していくことなのだと思います。

力強さ、明晰さ、賢さ、思いやり、やさしさ、許し、謙虚さ、感謝――。
そうした本来の性質を思い出しながら、内面が人や出来事に支配されず、何が起きても、愛や神、平和、やすらぎの中に留まること。

それが、本当に大切なことなのではないでしょうか。

外側の世界を無理に変えようとしなくても、自分の内側が変わっていくと、不思議なほど現実も少しずつ変わり始めます。

 

穏やかな心には、穏やかな出来事が引き寄せられ、
静けさの中にいる人には、必要な導きや助けが自然と訪れるようになります。

もし騙されたなら、「また一つ賢くなった」と思えばいい。
その経験さえも、自分を深く成長させる糧になっていくのです。

 

「何も考えない」「忘れる」ということは、投げやりになることではありません。
それは、神の大きな懐に身をゆだねることでもあると、私は感じています。

周囲の雑音や、人の価値観に振り回されそうになったときは、どうか一度、静かな場所へ戻ってみてください。

 

そして、本来の自分へ還ってみてください。

それが、もっとも自然で、もっとも美しい自分を生きることにつながっていくのだと思うのです。